ぼくのりりっくのぼうよみ は パラッパラッパーなのか考察する

ぼくのりりっくのぼうよみ

その個性的かつ、ネオ現代人の象徴である特有の気だるさを持った単語。バンドなのか、曲名なのか、いや、リリックっていってるんだからラッパーなのか、今ってラッパーっていうのか、ラッパーは現存するのか、パラッパラッパー懐かしい。と人の脳内を混乱に陥れる「ぼくのりりっくのぼうよみ」が、NHKのニッポンのジレンマに出ていた。クリエーターたちは今?~言葉のジレンマ大研究というテーマの会に、出ていた。

正しくは、ニッポンのジレンマを見ていて、この少年は個性的だなぁ、言葉を扱うクリエイターという文脈での発言が目立つが、新進気鋭の小説家か?リアル鬼ごっこという、日本語が破綻している小説を強気にも売り切った、後ろの設定のあらすじだけはちょっと魅力的ながっかり小説家、あらすじピークさんこと、山田悠介的な人なのか?と思ったら、それが「ぼくのりりっくのぼうよみ」だった。

ソロだった。

それ以前に歌手だった。

まず人名だった。

いや、wikiには日本の男性ラッパーと書いてある。
もしやパラッパラッパーなのか?
いや、まだ10代だからそれはないだろう。
パラッパラッパーを知らないだろう。
でもぼくのりりっくのぼうよみというアグレッシブかつアグレッシヴなアーティスト名を付けるのだから
ただのラッパーではない可能性が高い。
百歩譲ってNEOラッパーかもしれないが
パラッパラッパーである可能性もある。

どうして私はパラッパラッパーに固執しているのだろうか。
実際にパラッパラッパーをプレイしたことはないのだ。

いや、そんなことを言いたいのではない。
ぼくのりりっくのぼうよみをニッポンのジレンマで見た話だ。

そうだ。

そうだった。

聴いてみた。

良かった。

ハマった。 ←イマココ。

最近キテる歌手 として単純に曲に出会ったら、そこまでハマらなかったかもしれないが
言葉、そして表現に相対する価値観。
その独特の価値観。

古市憲寿等、新進気鋭の独特な価値観を持っているネオ社会学者と自負しながらニッポンのジレンマに出ているであろう彼の理解ですら超越したように感じさせる、周りの人を置き去りにしがちなその表現に対する新進気鋭の2乗的価値観を知った上で、

聴いてみた。

良かった。

ハマった。 ←やはりイマココ。

しかもどうやらパラッパラッパーではないぽである。

まだ確証はない。

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コトバのチカラにこだわる人は好きだ。
改行にも変換にも、単語の選択にも、全てに意味がある。できれば文字サイズやフォントにだってこだわりたい。
英語教育の重要さが叫ばれるが、日本人であっても、巧みに日本語を操ることは、実は非常に難しい。

それであるのに、意味もなく意味深に「コトバのチカラ」とkatakana表記にしてしまった。
カタカナをkatakanaと伝わりにくくしてしまった。

反省が必要だ。

いわば猛省である。

仮想通貨と関係ない話の割合が増加傾向にある。

SAY MO!だよ。

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