仮想通貨の誕生は、革命だと言われる。
仮想通貨は長年通づいてきた貨幣経済を、大きく変革する可能性がある発明だと。
果たして本当にそうなのだろうか。
本当に仮想通貨は革命であるのか。
私たちのこれからを、どう変えていくのだろうか。
仮想通貨投資に興味を持ち始めた友人から、よくこんな質問をされる。
「結局どの仮想通貨がいいの?」「たくさん種類があってよくわからない」と。
私も仮想通貨投資を始めた当初は、最後に覇権を取るたった一つの完璧な通貨を探していた。だが今では、それは誤りだったと感じている。勝者は一つである必要がそもそもなかったのだ。
この考えに至った理由を、現代の消費における変化を元に述べていく。
現在、日本は円、アメリカはドル、中国は元というように、国(地域)単位で通貨が異なる。どんな人であろうと、基本的には住む場所によって利用する通貨が決まるのである。
しかし、インターネットが世界中を繋ぐようになった。これによって何が起こったか。テイラー・スウィフトのファンたちは、世界中で新曲のPVついて感想を述べ合い、レアルマドリードファンは、世界中で同時にゴールに熱狂できるようになった。他にもポケモンGOの世界的ブームは、記憶に新しいだろう。
つまり(言語の壁さえあれど)、世界が趣味嗜好という横軸で容易に繋がることができるようになったのである。
そしてスマートフォンの普及とSNSの流行が、横軸の繋がりをさらに堅調なものとする。
今や私たちは、「繋がり」と「いいね」なしでは生きられない。
その「繋がり」と「いいね」は、趣味嗜好を共有している人同士の方が生まれやすいことは言わずもがなだ。
人々は、より多くの「繋がり」と「いいね」を求める。そのため国境をいとも簡単に超えていく。趣味嗜好には、必ず消費が伴う。だが国境を超えた消費には不便な点が多い。
趣味嗜好で結ばれた強固なコミュニティ。ここに共通の通貨があれば、消費はもっと円滑に、かつ活発に進むのではないだろうか。承認欲求を最大限に満たすためには、現在の国際通貨制度は不都合なのだ。
国境を超え趣味嗜好軸で世界の人が繋がっていく。この時代の流れにおける消費の変化の媒介を担うのが、仮想通貨であると思うのである。
現在存在する多様な用途のアルトコイン。今や1000を超える種類があるという。全てがこのまま生き残るとは流石に考えがたい。だが、現実に各国の異なる通貨のやり取りが経済を動かしているのだ。であるのならば何か一つの仮想通貨が、完全なる勝者である必要もない。
そこには少額の気軽な決済にはライトコインのように、趣味嗜好軸ではなく便利とか必要といった生存の仕方もあるだろう。
加えて音楽ならミュージコイン、賭け事ならばAugerやByteBallというように、「いいね」を生産する特定のコミュニティに最適化された通貨が生き残っていくのではないだろうか。ある仮想通貨は普及が特定の国周辺に限られているかもしれないし、ある仮想通貨はかなりニッチな分野にしか使われないかもしれない。だが、誰かがそのコミュニティの中の「いいね」をマイニングし続ける限り、存在意義は保たれ続ける。そして、その仮想通貨がコミュニティの外にあるなんらかの価値と交換され、経済が動いていく。
ニッチな仮想通貨の価値が、今やデジタルゴールドとも呼ばれるビットコインとの交換によってこのまま担保され続けるのであれば、それはかつて行われていた金本位制である。
金に中央管理者はいたか。いや、いない。いくら金の価格が保たれていても、どこかの国が突然鉱山を掘り当ててしまえば、世界の経済の均衡は崩れる。
ビットコインの構造には欠陥があり、最終的には成り立たないという人もいる。ビットコインを中心とした現在の仮想通貨市場にも、いつかはニクソン・ショックが起こるのかもしれない。それでも今の金のように、ビットコインは資産として残り続けるかもしれない。
結局歴史は繰り返しているだけなのではないだろうか。
国境を超えやすいよう、実態がなくなりデジタル上の暗号となった通貨。異形なものとして受け入れを拒む人もいれば、バブルだと嫌煙する人もいる。
だがしかし我々が歴史の上で、当然のように受け入れ、使いこなしている貨幣経済の形と実は何ら変わらない。国境から境界線が変更するだけなのだ。ともすれば金本位制のように一つの時代を遡り、なぞっているとすらいえる
仮想通貨は未来の経済を変える。
だが我々はいともたやすくその変化を受け入れるだろう。
だから私はあえてこう言おう。
「仮想通貨は革命などではない」と。
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